炎の声・土の声

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はしがき

花一輪の縁

 穴窯は築いたものの、長年育て上げてきた、私の脳裏にある『信楽焼・伊賀焼」には、ほど遠いものしかできなかった。失敗に次ぐ失敗。今度こそはと意気込んだがそれも失敗した。

 この窯焚きに命を賭けよう。決意をしての窯焚きがはじまった。割木はボトボトに湿った生木しかない。温度は上がらない。これで最後か? もう打つ手はないのか?

 その時聞こえた、炎の声・土の声

 幼い頃、骨董好きな父親に連れられ、よく骨董屋をひやかして歩いた。それで室町から安土・桃山時代の「信楽焼・伊賀焼」が私の心に染み付いていた。

 恩師の薦めもあって、関西大学の法学部に入学した。その頃は司法試験の受験勉強の傍ら、趣味としての粘土遊びをしていたが、まさか陶工になろうなどとは夢にも思っていなかった。陶工になった途端、温室のような生活から一転して、原始の生活に引き戻された。乞食小屋でのランプ生活のはじまりだ。食べられないがあたりまえという生活が、何年も続いた。親しかった人はもちろん、両親からも見放された。

 信楽の町は滋賀県の最南端にあり、冬の寒さはことのほか厳しい。トタン一枚の小屋で凍死しなかったのが不思議なくらいだ。だが、あの室町から桃山時代にかけての「信楽焼・伊賀焼」は私の中で日増しに膨らんでいった。太公望は釣り落とした魚は大きかったといい、ご婦人は買いそこねた着物は素晴らしかったという。自分の手に入らなかったものには、特別な執着心が芽生えるらしい。実物以上に大きく、素晴らしいものに自分で育てていくようだ。後日、同じものを見ても、それはあのときのものでないといい切るほどに育て上げる。私の憧憬してやまなかった「信楽焼・伊賀焼」も、幼い頃にみたもの以上に、自分で育て上げていたにちがいない。

 現実の厳しい生活と追い求める夢。両立させることが困難と分かっていても、自ら選んだ自分の道。日に日に生活は苦しくなっていく。断られても断られても、借金に走りまわった。初めて会った方の所へ、会った翌日借金に走ったこともある。初めて会ったその方が、会社の存続を賭けてまで援助してくれようとは・・・・・。夢に描いた穴窯を築くとき、「これを使ってください」と、皺くちゃになった千円札まで入れて援助してくれた人もいた。多分その日の小遣い銭まで・・・・・。

 人は一生のうち、自分の人生を左右するほどのチャンスにっ三度巡り会うといわれている。私は陶工を志してから今日まで、数限りなく多くの人に会った。その出会いの全てが私の生き方を変えた。まだ四十六歳の誕生日を迎えたばかりのひよっこが、何を偉そうにといわれることを覚悟していうなら、「心のもち方次第で、出会いの全てが人生のチャンスになる」と。

 人の出会いほど不可思議なものはない。

 鎌倉の若宮通りから鎌倉八幡宮に突き当たり、右に曲がって五十メートルほど言った所に『加満久良』という陶芸喫茶がある。二年前のこと、鎌倉の仏像を撮り続けていた写真家・駒澤晃氏の乗るバスが、渋滞のため、その店の前で停車した。ふと見た玄関の筧から流れる水。掛け花入れに、何気なく生けられた一輪の花。駒澤氏はその光景が気になり、鎌倉駅で待ち合わせをしていた奥さんとともに雨の降るなかをその店に急いだ。そこには私の作品が置かれていた。店の主人浅葉氏は、私の作品と共に私の生い立ちを語ったという。数日後、私の仕事場に駒澤氏が取材に来た。文芸春秋(八十六年九月号)に掲載するためだった。

 今こうして『炎の声・土の声』を書いているのも、このような花一輪の出会いがあったからだ。この場をかりて、本書出版にあたり、写真撮影その他でお世話になった駒澤晃先生。何度も私のもとに脚を運んでいただいた、日本教文社の永井光延氏と長谷部智子さん。今日まで私を育ててくださった多くの方々に、ただただ「ありがとうございました!」と、合掌してお礼申し上げます。

 最後になりましたが、この本を読んでいただける皆さんお一人お一人に、心からお礼申し上げます。ありがとう! ありがとう! ありがとう!


  昭和六十三年4月一日                       神崎紫峰



第1章 夢にまでみた古伊賀・古信楽!
 夢に終るかそれとも・・・・


 信楽の町はずれにある小さな峠を越え、二キロほど南へ行った所に、なだらかな信楽の山懐に 抱かた五〇戸余りの小さな村がある。盆地特有の冬の厳しい寒さを耐え抜くために、日当りの良 い南向きの山裾に肩を寄せ合うように民家が建ち並んでいる。その民家の向い六〇〇メートルほ ど離れた小高い山を、村人は向山とよんでいる。土地の人が、かって住んだこともないその北向 きの向山の中腹に、私の陶房がある。いつしか、村人からは向山陶房とよばれている。

 民家の灯は消え、鳥も木も深い眠りについている。窯の煙突からモクモクと昇る煙が、たなび くように里を覆っている。月のない闇夜には、向いの村の街灯のあかりが、ひときわ明るい星の うに見えるのだが、今宵は、窯の煙にぼんやりと霞んでいる。

 十三年前のことだ。
 私は陶工を志して三度目の窯焚きに挑戦していた。初窯と二度目の窯はみごとに失敗した。 同じ愚を繰り返すことは、もはや出来ない。



1.1  湿った生木では駄目なのか?



 初日・二日目・三日目、初めは窯の温度も順調に上がり、予想どおり事が運ぶかにみえた。だが、 三日目の早朝に異変が起きた。私は窯のそばに寝袋を敷き、その中で仮眠をとっていた。 寒かった。それに神経が高ぶっているのだろう、なかなかなか寝つかれなかった。

「いま何度?」

 寝袋から顔を出して、窯の番をしてくれている亀谷泰久君にたずねた。

「は、はい! 八五〇度です」

 いつもと違ううわずった声で、驚いたかのように亀谷君は応えた。

 八五〇度? そんなバカな! 順調なら千度以上なくてはならない。
「窯の動きが止まったな。いつから止まった!」

 私は思わず大きな声を出していた。

「はい!温度が止まったので、先生を起こそうかと思ったのですが・・・・。でもこの三日間、先生は ほとんど寝てられなかったので、もう少し、もう少しと・・・・」

 彼の心遣いが胸をうつ。だが、このような時には、如何なる理由があっても起こしてもらわねば 手遅れになることがある。窯の温度が止まって二時間が経過していた。

 彼と窯焚きを交代するまでには、まだまだ時間があったが、彼に代わって私が窯を焚くことにし た。彼は、私が昭和四十四年から大阪で主宰している、陶芸道場の会員だ。この窯を築くときには、 資金援助をしてくれている。私の窯に火が入ると、いつもこうして窯焚きの手伝いに来てくれる。

 窯の温度が上がらなくなってから、まだ二時間しかたっていない。だから、私が窯を焚きさえす れば、すぐにも温度を上げられる、と軽く考えていた。東の空が明るくなり、すべてのものが深い眠り から覚め、生気を取り戻している。なのに、窯は目覚めることを忘れたかのように、いっこうに温度が 上がらなくなった。

 亀谷君と窯焚きを交代して数時間がたった。温度計の針は、八五〇度で止まったままピクリとも 動かない。それまで聞こえていた炎の音さえも聞こえななくなっていた。窯は全く勢いを失い、このま までは死んでしまう。何とかしなければならない。気持ちは焦るが、どうすることもできない。。

「亀谷君!煙突を二センチほど開けてくれ!・・・・東野、薪をもっと細う割れ・・・・割った薪を窯の熱 で乾かそう。窯の上に並べられるだけ並べてくれ!」

 窯焚きの数日前まで、山で青々と繁っていた薪なので、薪は水分を十分に吸ったままだった。

 亀谷君は煙突まで駈けて行き、私の指示どおりにしたことを報告してきた。内弟子の東野は、 すでに割って積んである薪を、さらに細く割り始めた。煙突から小走りで戻ってきた亀谷君も、薪を 割りだした。二人が斧を振り下ろすたびに、窯のトタン屋根が、ドドォン・ドドォンと響いている。 その音のテンポがいつもより早い。二人は割り終った薪を抱えられるだけ抱えて、窯の天井に並べて いる。二人のこのような素早い動きを見たのは初めてだ。

 私はもちろん、弟子もなんとか窯の温度を上げようと必死だった。

 焚き口の所の煉瓦は手を加えられるようにしていた。その煉瓦を何度も積み替えてみた。 ロストルの下から入る空気の量も様々に調節した。薪を投げ入れるたびに、おき炭を火かき棒でかき 回し、薪がよく燃えるようにした。投げ入れる薪の量を多くしたり少なくしたり変えてみた。 薪を投げ入れるピッチを、早くしたり遅くしたりしてみた。考え付くことはすべて試した。

 だが、窯はこちらの思うように動いてくれない。夜になっても、温度はいっこうに上がる気配 をみせなかった。

「やはり生木では駄目なのか。昨日まで烏(からす)が止まっていたような生木では・・・・」

 この薪を買い入れるとき、保証人になってくれた植西正和さんの顔を思い浮かべながら、 暗たんたる気持ちになった。

 私はこの窯にすべてを賭けていたのだ。もしもこの窯を失敗すれば・・・・これが最後の窯焚き になる・・・・。そこまで思い詰めての窯焚きだった。



1.2  あんたは信用できん


 いちど窯を焚くには、莫大な資金が要る。いまの陶工の多くは電気窯とか重油窯・ガス窯・灯油 窯を使っている。これらの窯ならそう多くの費用はかからない。薪を焚く登り窯でも、熱効率と作 品の歩留まりがよいので費用は少なくてすむ。だが、私が生涯を賭けようとしている半地上式穴窯 は、熱効率が良くないので、少なくとも八日、長いときは十数日も焼かねばならない(いまは最低焼 成日数十日以上と考えている)。したがって薪も登り窯より四、五倍もの量を必要とする。私の窯は それだけ費用もかかる。十日間焚くとして、要する薪の量は約二十トン、薪代だけで当時で三十万円。

 その頃の私に、そんな大金はない。三十万円と言えばいまの百万円以上に相当する。私は貧乏 のどん底で、大きな借金こそあれ小金も持ち合わせていなかった。この窯を焚くにあたって、またま た借金を増やしての火入れだった。

 あとでも折々にふれることになるが、私は窮地に陥ると、不思議と素晴らしい人々と出会った。 このとき、私に救いの手を差し伸べて下さったのは、信楽の植西正和さんである。

もちろん、最初は人に頼る気持ちはなかった。といっても、借金する当てもない。思案した。 割木屋に事情をしてみようと思った。

「そうだ、二十日締めの翌月末払いでお願いしてみよう」

 初窯の薪を買い入れた割木屋に掛け合った。

「なんとかひとつ頼みます」

 私は何度もお願いした。だが、やはり色良い返事はもらえなかった。

 いまから思えば無理もない。髪は伸ばし放題で頭の後ろで藁縄で結わえ、髭はぼうぼう、それ に身なりも汚く乞食同然だった。案内した向山の作陶小屋も、作陶小屋というと聞こえはいいが、 乞食小屋にも劣る酷いものだ。どこの馬の骨かわからぬこんな男を信用しろというほうがおかしい。

 それでも私が信楽の者であることを正直に言えば、けんもほろろな断わり方は、されなかった だろう。親は陶工でこそなかったが、代々信楽で米屋を営んでいる。そのうえ堅物でとおり、堅すぎ てへんこ(へんくつ)者扱いさえされることがあった。古くから代々築いてきた堅い信用。実は・・・・、 とひと言いえば済むことだった。

 だが、私には出身を明かすことはできない。そういう事情があった。親の反対を押し切って陶工 への道を歩んだために、両親からは勘当を受けていた。親子の縁を切られた以上、どこの誰それという ことはできない。そんなにこだわらなくてもと思われるだろうが、私にも意地があった。

「たとえどんなことがあっても、自分の身元を明かすわけにはいかない。一人前の陶工になるまで は」

 私は思い悩んだ末、。植西さんには、既に大きな借りができていたが、力を借りようと思った。 窯を築き作陶小屋を建てる山をただ同然で借りていたのだ。そのとき既に植西さんは、私が信楽の人間 であることを知っていた。信楽で私の出身を知っている唯一の人だった。。向山に窯を築くとき私は、

「知ってのとおり、ぼくは両親から勘当されてる。この信楽で窯を築いてる、ということは親に知 られとうないんで、ひとつ内緒にしてもらえへんやろか」。

 私の勝手なお願いに、

「そしたら、大阪の人ということにしとこ」。

 それ以来村人は、私を大阪の人と思い込んでいた。

 この窯焚きで使う薪の手配を頼むなら、植西さんをおいて他にない。私は相手の立場に思いを いたすこともなく、ムシのいい結論に導いた。

 二月半ばのことである。

 外は絶え間なく寒風が吹きすさんでいる。木も土も、その寒さから身を守るかのように、硬く 小さくなっていた。信楽の冬は厳しい。ことのほか底冷えがする。小屋は足場丸太を組み、トタンを 張っただけのものだ。すきま風が容赦なく私を襲う。

「神崎さんいるか?毎日寒いな」

 植西さんと割木屋が、手をこすりながら小屋の外に立っていた。

「入って」

 私は入口に掛けてあるビニールをはずし、トタンのドアを開けた。小屋は三坪の広さで、 畳と土間が半々になっている。入口を入ると右に土練り台があり、まん前にろくろ、その向こうに巾 二メートル高さ二メートルほどの乾燥棚がある。左側に擦り切れた畳を三枚敷いている。そこには布 団と炊事道具一式があるので使える畳は正味一枚半だけだ。

 冬場の作陶は大変だった。作った作品が凍ると、暖かくなったときにその形がなくなってしま うのだ。だから、作品が凍らないよう、土間の作陶室だけはビニールハウス用のビニールを貰ってき て張り詰め、石油ストーブを置いていた。

 三人は身を寄せるようにして、一枚半の破れた畳の”応接間”に座った。人間よりも作品が 大事なので、ここにはストーブもない。

「こんな所でようやってるな」

 割木屋が半ば呆れ顔で、このような生活をしている私を信用できないというような表情で言っ た。そして言葉を続け、

「いま植西さん所へ行ったら、わしが保証人になるで、延べ払いで神崎さんとこへ割木を入れて くれんか、と頼まれた。それでこうして植西さんと一緒に寄せてもろてん」。

「神崎さんとは昔から取引さしてもろてるけど、そら堅い人や。そやからわしもこの山使うても ろてる。もしまんがいちのときは、わしが払う。頼むで入れてやって」
v 植西さんのこのひと言で、割木屋もしぶしぶながら承知してくれた。私は、二十日締めの翌月 末払いでお願いした。そのうえ、来月つまり三月二十日過ぎで三月中に一千束の薪を欲しい、と自分 かってなお願いをした。支払いを一ヶ月延ばすための苦肉の策である。しかし、それは駄目だと言う。 これから作る薪一千束を、三月二十日までに入れる、ということで話がついた。

 割木屋は帰りぎわ、入口に立って、もう一度小屋の中を見回した。そして小屋を背にし、植西 さんと肩を並べるように歩き出た。

「もしものときは植西さん・・・・」。

「分かってる。心配せんでもええ、責任はわしがとったる」。

 しだいに遠ざかっていくこの話し声を聞いて、今度の窯はなんとしても成功させねばと、心に 堅く誓った。思わず植西さんの後ろ姿に手を合わせていた。

 こうして薪が手に入った。薪はまだ伐って間もない生木だったが、乾燥させる時間的余裕がな かった。

 大阪で個展を四月下旬に開く予定だった。その個展に間に合わせるためにはすぐにも窯を焚か ねばならなかった。。斧で割ると、真っ白な木肌にみるみる水分が浮き上がってきた。



1.3  この窯もろとも・・・・いや、待て!


「こんな湿った生木で温度は上がらんで。こんな薪で焼けるかいな」。

「薪窯の常識も知らんのかいな」。

 穴窯に火が入っているのを知った信楽の陶工が、一人また一人と、見学にきてはこのように言っ て帰っていく。当時(昭和四十九年)信楽で、穴窯を築いている陶工は私を含めて三人だけだった。 だから、穴窯に興味をもっている陶工が多かった。いま焚いている薪が生木であることは、誰の目に も明らかだ。

「生木では窯は焚けない」

「生の木で窯が焚けないのは、薪窯の常識だ」

 この言葉は私の心臓を突き刺すように響いてくる。窯の温度が順調に上がっているときならま だしも、弟子も私も対策に躍起になっているときだ。ますます暗たんとした気持ちになる。

 その夜は三人とも一睡もしなかった。動きづめであった。考えられることはすべて試した。 弟子は疲れきった表情で、ものも言わない。

 窯を焚き始めて四度目の太陽が昇った。しかし三人の心は真っ暗闇の中をさまよっていた。私も 弟子も必死の一晩だった。一筋の細い可能性を求め、知識の限りを尽くし、体力の限りを尽くしての 三十時間。しかし温度は上がらなかった。もはやこれまでか。さすがの私も、心身共に疲労の極みに 達していた。

「おい!温度計をはずせ!」

 言葉は荒々しく、半ば自棄(やけ)ぎみだ。

「わしはなあ、この窯にすべてを賭けてた。しかし、このざまだ。こうなってはどないもしょうが ない。そやけど、この身を焼き尽くしてもこの窯を焚かんならん。これからわしは、この薪を全部使い きるまで自分一人で焚く。窯が勝つか、わしが勝つかや。この薪を使い切っても焼けなんだら、この体 を燃料にするまでのことや。それには温度計もいらん。早よ!温度計をはずしてしまえ!」

 そう言って私は、頭を抱え込んでしまった。弟子も疲労困憊している。なのに、私が苛立ってい るので、少しでも私の気に触ることがないようにと、弟子はいつもより余計に気を使っていた。二人は 急いで温度計をはずしに火吹き穴まで走った。そして大きな声で、

「温度計をはずしました」

 と、声を揃えて報告した。

「あっ。お早ようございます」

 と、弟子が誰かに挨拶をした。振り向くといつの間に来ていたのか植西さんが立っていた。

「神崎さん、えらい荒れてるやないか?」

 植西さんは、さっきからこの光景を見ていたらしい。私は、恥ずかしいところを見られた、と言 う気持ちは起こらなかった。今はそのような気持ちの余裕もなかった。誰でもよいから、この窮地を打 開する方法のヒントだけでも与えてくれればと、藁をも掴む思いであった。

「やっぱり、あかんわ。昨日まで烏の止まってたような木では無理みたいや。温度が上がらへんよ うになってしもた」

 泣きだしそうな声に、ついなってしまった。 「そら、えらいこっちゃな・・・・」

 ちょうど薪を入れるタイミングがきたので、立ち上がり、火掻き棒を手に持った。火掻き棒の 重さが、いつになく重く感じる。焚き口の蓋を開け、火袋のおき炭をかき回し、蓋をした。植西さん は、窯の中を覗こうと、四つんばいになって、頭を地に付けんばかりにして焚き口を覗いていた。煙 突から半透明の乳色をした煙が力なく立ち昇っている。その煙がすうっと消えた。窯に薪を投げ入れ たが、焚き口からの炎の噴き出しもない。まるで窯が死んでしまったかのようだ・・・・。

「勢いがないな。火の勢いが。それに神崎さんにも勢いがない」。

 植西さんは、ズボンと上着の袖に付いた土を払いながら、さらに付け加えた。

「いままで神崎さんは、あらゆる修羅場をくぐってきたのと違うのかいな。それでも、いっつも勢 いがあったで。普通の人なら、命の一つや二つは捨ててる所や。そんな厳しさをくぐり抜けて、いまま で頑張ってきたんやろ。最後まで望みは捨てたらあかん。神崎さんは阿修羅やろが!」。

 この言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に、今日までの様々な出来事が走馬燈のように思い出されて きた。

「そうなんや。わしは阿修羅や、阿修羅やったんや」


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