この一文は、ディック・レーマン氏の著になるもで、セラ三クス・マンスリー誌・1997年6,7,8月合併号に掲載されました。同雑誌及び著者の了解を得て、ここに掲載いたします。

ほんのごく一部にディック氏の誤解による記述がありますが、大意に影響がないので、そのまま訳し ていることをご了解のほど。


神崎紫峰:

伝統を超えて

ディック・レーマン著

翻訳:神崎紫峰

”古きを敬い、古きに学ぶ。だが、その古い殻を破りそれから何か新しいものを作る。 これこそ伝統の意味するところだ。”
― 人間国宝(日本)・加藤卓郎

”自分の考えを取り入れないで、ただ日本の伝統的な焼き物を引継ぎだけでは意味がない、が、やり過ぎは 伝統を壊すだろう。重要なのは古い技法と考えを最大限に利用することだ。”
― 前人間国宝(日本)荒川豊三

”全ての作品は自分自身の創造物であるべきだ。それは昔の技術を単にアレンジしたものであってはなら ない。今、この世に生きているのだから今日の窯焚きをし今日の詩を歌うべきだ。言葉では簡単だが、 それを実行することは難しい。”
― 陶工(日本)若尾利貞

数年に渡り、伝統の特質についてのこれらの引用句は、注目に値する考えを集めた私のコレクション中に あった彼らの考え方を見出したものだ。ひとつの背景としてこのように考えてはいるが、神崎紫峰に会ったとき、 私は伝統に関する私の考えに挑まれていると思った。

ジャック・トロイが神崎の作品集を見せ、示唆に富んだ紹介をしてくれただけでなく、カールと奥さんの ジニー・ビーマーが、初対面の彼に会わせようと、アメリカのペンシルベニア州ブルームスバーグ町 にある神崎&ビーマーの幻窯の窯開きに招待してくれた。それは1995年8月のことだった。(参照・セラミック・ マンスリー誌・1996年4月号16ページ)。そこには伝統的手法に則って作陶している陶工と彼がアメリ カに築いた窯で 焼いた作品を選ぶため渡米していた彼の作品愛好家の人々がいた。伝統的手法で薪窯を焚いている 陶工がそこにいて、――10日間焼成で40年以上の赤松25〜30トン―― 他方ではモデムの速さを語り、 掲示板で話をしている。事実、ワールド・ワイド・ウェブ上の彼の新しいホームページはオーストラリア のクレイ・ネット上で、 ”今月のセラミック・サイト”に選ばれている。

このようにいろんな面をもつ神崎の生き方と作品は、伝統的な陶工の作品について、そして伝統その ものの本質についての私の考えと相容れないものだった。 自身を伝統的陶工と呼んでいること自体少しばかり矛盾しているようだし、同時に20世紀に完全に埋没 しているようでもあった。 だが、当初は矛盾と感じていたいくつかは、神崎を知るにつけ少しずつ解決していった。神崎紫峰は 日本六古窯のひとつ信楽に生まれ育った。子供のころ父親と骨董品屋を回ったと言う。そこで安土桃山 時代(16世紀)の信楽や伊賀を時折見た。彼が言うには、これらの作品は彼にとって衝撃だったと。

信楽に生まれ育った彼が焼き物に余りにも親しみを抱いていたのは想像に難くない。陶工と言う職業は 特に関心を持つよなものでなかったようだ。その頃の陶工は、それほど地位の高いものでなかった。 加えて、神崎は長男として、父親の仕事(米穀・薪・炭の小売商)を引き継ぐか父親より高い地位の 仕事につく責任があった。そこで、焼物に興味があったのに法律を学ぶ決心をした。 1963年関西大学を卒業し日本では最も難しいとされている国家試験に挑んだ。それをパスするの は非常に困難で、そのために学生たちは何年も費やする。

それから2年の間に、神崎の生き方を決するような体験を少なくとも3度している。
最初の体験: 自活して勉学をするため、神崎は自動洗車機を売ることにした。と言うのは、彼は 彼の販売を基に保証されていたので、全ての労働時間をセールスに費やしなくても良く、 これは試験勉強をしている彼にぴったりな仕事だったようだ。そして神崎は成功した、大成功したのだ。 一年の間に、彼の販売実績が神崎自身を変えていった。彼の自戒によれば、仕事仲間としっくり行か なくなり、上司をも退職に追い込むという傲慢であまりにも身勝手な人間になっていたのだ。ちょうどそ の頃、尊敬していた友人から、自分が引き起こしている予想だにつかないほどの苦悩と対立につての 率直な意見が神崎にされた。これは非常なショックだった。ある意味で、自分の行動の責任をとって、 まもなく退社した。

二度目の体験: 試験勉強を続けながらも、神崎は法律家になることに疑念を抱き始めていたので、 友人の法律家を訪ねることにした。友人の生き方を注意深く見ながら、法律の世界で考えら れているのはは理論だけなのか、人と人との結びつきは必要とされないのか、いや無くなっている、 神崎は声を出して驚いた。友人は神崎の真の疑念を認めた上で、友人は、法律だけをもっぱら勉強し 続け、人が生きていく上で一番大事なものを失ってしまった、と思っていた。

最後の体験: 神崎は大学生の頃に見た展覧会について思いをめぐらし始めていた。古代インド美術 の展覧会での女神の彫刻だ。その像は、彼に強烈で並外れた自由を感じさせた。それ以上に、 その女神像が言わんとしている真の自由への憧れが強くなっていった。

これら3つの体験から得たものがひとつになっていき――それはちょうど長男としての役割 を果たす準備がほとんど整った時だった――神崎は進路を変更した。法律家にはならない。陶工に なろうと思った。

彼の取り巻きのほとんどが、彼が決めたことに反対した。”高等教育を受けてない者だけが陶工になっ ている”と、父親が言った。(高等教育を受けられなかった父親は、息子が司法試験に合格することを夢 み期待していたのだ。) ついには、神崎の決心が不変のものだ、と言うことが全員にはっきりした。 ようやく父親は彼の決意を受け入れたが、父親が思っていたことと神崎が心に描いていたものとははっ きり異なったものだった。父親は息子が窯元(産業陶器製造業)になると思っていたし、日用品を大量 に作るのだろうと考えていた――収入源としてある程度頼りになる。

神崎は生活のために、いわゆる信楽焼きと言われているようなものを作っていこうなどと毛頭考えてい なかった。彼はかつて見たあの”本当の信楽焼き”、古信楽・古伊賀を再現しようと決めていた。 彼は陶工(陶芸作家)になろうと決めていたし、危険を伴うこの並外れた幻に挑む準備は出来ていた。

彼は、安土桃山時代から今は見捨てられている窯址を訪ね始め、古伊賀・古信楽の自然釉の特質を 調査し始めた。その後、信楽の実家で生活をしながら大阪にスタジオを作った。作品は良くなっていた が成功にはおぼつかなかった。百貨店のギャラリーでは月に一・二点売れるだけで、生活費にも満た なかった。生きていくために彼は借り入れをし、彼が以前他の陶工の製品を販売ていたところに小売店 を開いた。その店での販売は伸びていたが、一般経費と金利を払える程度だった。経済的には全く良 くなっていなかった。その間に、製品価格が上昇し神崎は債務を増やすことになる。未払いの借金は彼 の名前を汚し、それとはなしに、父親の名前をも汚していた。悪いことに、知人が神崎に個展を提案し、 多くの作品を遠方に持っていき、彼の借り入れを増やした(神崎は世間知らずにも弟子や友人から借 り入れをした)、その後知人は作品とお金もろとも消え去った。彼の夢への追求とこの一連の経営失策 は神崎を取り返しのつかない借金地獄に陥れた。。作品価値の2万ドルの損失に加えて彼の悪友 のためにした取り返しのつかないほどの借金(作品価格とほぼ同じ)は、彼と弟子、友人、家族の関係を 不和にした。

1969年ついに父親が自分の意向を彼に伝えた。父親は、もし神崎が”普通でも”製陶業者のような 仕事をするなら、借金を返済するために走り回っているより芸術への夢を追う時間 が多く持てるはずだと決め付けた。父親は、金のかかる芸術への幻を追うことをやめ、主に商 品を作る製陶業者になるなら、個展で生じた借金を返済し貸借を清算しようと言った。

驚いたことに神崎は父親の申し出を断った。このような妥協をすれば、自分の生きるところがない。 崩壊した仲買制度への批判と湧き上がる芸術的な夢への信念の表れとして当然のように、神崎は ”窯元の仕事とと陶工としての仕事を同時にすることは出来ない”と、父親に言った。神崎にとって それは”共に/あるいは”と言う提案だったので、陶芸家としての仕事を続ける道を選んだ。

父親にとってその立場はまた同様にはっきりしていた。彼は親子の縁を切り、経済支援を打ち切り、 神崎と妻、娘を(父親の)家から放り出した。それからの数年間は困った。神崎と妻は大阪空港の近くの 安アパートに転居した。彼の夢は自分の穴窯を築くことだった。信楽に戻り知人に夢を話した。その人は 自分の山を貸そうといい、神崎が自分の家族からまだ縁を切られていたので、誰にも身元を明かさない ことを約束してくれた。そのため神崎は穴窯を築いている間身元を隠すため”髪の毛を長くし髭も伸ばし 放題”と。

翌年から神崎の家族は大阪に住み彼は週に一度家に帰った。その間神崎は世捨て人のように借地に 建てた小さなトタン小屋で電気もない生活をしていた。家族を養うのは大変だった。時折他人の 親切で生活することもあった。神崎はとりわけ、”素晴らしい人との出会いの縁”に感謝している。

彼に遠まわしな言い方でセールスについて教えた禅僧がいた。その僧侶は、彼が芸術への夢の追求に 一生懸命になっているのと同じように、売りに来ている時はそれに一生懸命になる、それらは同じことだ と言うことを彼に気付かせたのだ。その瞬間瞬間には、その瞬間にしかないものに全神経を集中 すべきだと。”作るときも同じ―売るときも同じ”と。

殊に一人の陶工・松山祐利氏は寛大かつ腹蔵なく助言をした。秘密にするとか守護とかではなく、 野心あふれる陶工を陶房に招き入れ、窯を調べることを彼に許した。一層励みのついた神崎は寸法 を取り窯の構造をノートした。その後神崎の二回にわたる最初の窯焚きに失敗(1973年、穴窯が 完成した後)した時、松山氏は彼の窯焚きにくるよう神崎を招いた。彼は温度計を使っていたが、 事実それに頼ってはいなかった。彼はむしろ、彼がいかに炎の流れと量を読むことに対する彼自身の 洞察を確信しているかを神崎に説明した。

この体験は神崎に大きな衝撃だった。だが、次の窯焚きで彼が学んだ全てが厳しい試練を受けること になる。なぜなら彼は薪を乾かす余裕がなく、生の薪で窯を焚き、一定の温度にするのに途方もない 困難を経験していたのだ。彼が諦めかけたちょうどその時、松山氏と奥さんが訪ねてきた。二人はお 茶を所望した。神崎はお茶を出したが、内心は大いにいらついていて、彼が直面している窯焚きの危 機についての諸問題を松山氏にぶつけようと思っていた。松山氏は静かにお茶を飲み、神崎が窯焚き 中の危急事態を訪ねる前に、彼はかって生の薪で窯を焚いたが、素晴らしい結果だったと話した。 そして来客はつむじ風のように去っていった。

松山氏の話は、神崎が必要としていた励みそのものだった。彼は急いで窯に戻り温度計を取り外し、 炎の声を聞こうとし、自分の感覚に頼ろうとしていた。神崎と助手は出来る限り薪を細かく割り始め、 それから井桁のように薪を組む窯焚きを始め、火袋のおき炭の状態も良くなり、温度が上が り始めた。窯焚きの9日後、その窯焚きは成功裏に終わった。神崎はこれを、窯の声を聴き、炎の 声を聴き、土の声を聴くと言う”常識そのものを超えた”体験と述懐している。

大成功を収めた窯焚で、松山氏は彼を弟子とすることにした。 これは神崎が師匠から一種の保証を されたことを意味すし、神崎のプロとしての信用が大いに高まった。

三度目の大事な出会いは京都に住む陶工・加納白鴎氏との出会いであった。神崎は他の陶工(神崎 よりずっとランクが上)につれられて加納氏を訪ね、加納氏に”主賓”として迎えられた。 彼は10個の異 なったお茶碗で10杯のお茶を神崎に点てて出した。それぞれの茶碗は前に出された茶碗より綺麗だった。

それから加納氏は,、もう三杯点てますが、それの器は今までのよりももっといい、最高の三点ですよ、と。 だが神崎は混乱し始めた。 その三杯目の最初のお茶碗は、一番最初に出された素晴らしいお茶碗 ほどのものでないように神崎には思われた。二番目のお茶碗は彼の唇が触れたところが鋭い口縁だった。 ---茶道の約束事に反していたのだ。三番目のお茶碗には高台がなく、床に置くと前後にごろごろした (お茶がこぼれるほどではなかった)。

これは神崎にとってびっくりすると同時につじつまの合わない体験だった。 ”最高”と言われる茶碗全てが”茶道 での約束事”を超えていたのだ。 それらは事実、茶碗そのものの定義を超えていた。 この 体験から、陶工は美しいと思うものを創るべきで、約束事だけに囚われるべきでない”と、いう ことを神崎は学んだ。

四番目の素晴らしい人との出会いの縁は、温度計会社の社長・松田敏彦氏だ。松田氏自身かなりの 経済的困難を体験していて、その経験から多くの信頼と寛大さを身に付けていた。 彼は温度計の支払い に関し神崎を信用し、彼が出来るだけ早くその製品代を支払うだろうと理解を示していた。 他方、松田氏は 彼が期日までに返済すると言うことを受け入れて、神崎にかなり多額の現金を貸した。  しばらくして神崎は、松田氏が置かれていた状況下で、如何に大きな信頼をされていたのかを知ることになる:  もし彼が約束した期日に借入金を返済出来なかったなら、松田氏の事業は危機に陥っていたのだ。

神崎は支えてくれた寛大な人々に感謝すると同じように、彼が必要としていたときに彼を見捨てた人々、 彼が一番貧乏だった時に彼から儲けていった人々にさえ感謝して率直に受け入れている。 これらの見たところ正反対の体験について彼は言う”真実は… これらの出会いのため、私が今あるのも… 誰もが各々の役割を持っているし、各々がその役割を果たしている --- 他の人ではそれは出来ない。 私の役割は私の作品を創ることだ…他の人では創りえない作品をだ…。厳しい気候に耐えてきた樹は本 当に美しい。それは人でも同じことだ…。生きることの苦しさに耐えることは人の新の美しさを表す。 これら困苦の初期があった故、神崎は立派な作品を創れるようになった。彼は主に茶道を対象に作っていて、 信奉者もいえる収集家をもっている。 そして彼は父親と仲直りし、8年前、父母に余生を送ってもらうた め両親を、彼の家に迎えることが出来た。

---成功が困窮とコミットメントを補い、妥協を好まずに天職をひたむきに追求するという--- このような話は私たちの関心をひきがちだ(もしかしたら、ある程度私たちを非難しているようでもある)、 しかし時にはこのような話は、そのもを正当化するように機能し始める。事実私たちの何人かはこのような 話に疑惑を持っているかもしれない、驚くべき話を称えた巧妙な広告に余りも度々説得され続けているの だから、余りにもしつこく勧誘されている商品の虚偽の馬鹿な言葉をただ気づくだけなのだ。

だが、神崎の話はただ巧妙な広告以上のものだし、西洋の物語”貧者から富者へ”、”故郷では良い子”あるいは ”他人の助言を借りないで自分でやる”の、ちょうどその日本語版以上のもだ。 この場合、その話は主に彼の 作家活動としての一つの背景として機能している。その話は、作品に脈略を与えるのに重要だが、 作品そのものが本当の力を持っている。 それらは、挑戦とさえ思える強さと美そのものに ついての我々の観念を広げる力を持っている(私が主張したいのは、これは少なくても陶芸の役割の 欠くことのできない要素であると)。

数年に渡りその作品を見続けることは、話が主なのか作品が主なのかを判断する方法のひとつだ。 もし話がそれだけで終わっているなら、作品に変化は見られず陳腐なものとなる。しかし、作品が主要で きわめて重要なものであるなら、作品は、作者の活力で進歩すると言う変化と成長を続けるものだ。

”一定のレベルに達した時”、神崎は言う、”その瞬間に満足する。だが、もし次の窯焚でただ同じような 品質の作品が出来たなら、以前その域に達していて既に満足しているので、以前ほどの満足感はないだろう。 芸術家として、常によりよいものを追求するのは我々の責任だ。私は成長しなければならないし、以前よりも よりよくなる必要がある。同じように私の作品は成長し、いつもより良いものでなければならない。” 神崎は販売面でも同じような確信をもたらしている。彼は最良の作品でないと売りにくいという事を知り、 絶えず改良することが彼の販売律の重要な点をなしている。

そして予想通り、神崎は、プロの陶工が最高の作品を自分用に保有しているのは偽善的だと思っている。 ”最高の作品は販売用であるべきだ。隠したり最高の作品を手に入らないようにするのはごまかしだ。” 私はただ一度だけ神崎が彼の最高の作品を売るのを拒否した時の事を知っている。ある仏教の僧侶が、 訪ねてきて、彼がことに賞賛していた神崎の家でひとつの作品を見た。彼がその購買について尋ねた後、 神崎はそれは売り物ではありません、と言った。この返事は、彼がそれをどうしても買いたいと思っていたので、 その僧侶の機嫌を大いに損ねた。神崎はその理由を説明した。彼は東京のある店で自分の作品に偶然行き 当たった。そこでの偶然の出会い、彼は新しい店でそれを見たのだ。そして彼はそれを持つべきだと思うに至った。 それで彼はその店で言い値で自分の作品を買ったのだ。”これは”彼は説明した、”そういう理由であなたに売 れないのです…私が買ったものですから…売る必要がないのです”と。

その僧侶は神崎の言い分を理解した。が、その後次の言葉で神崎を仰天させた。”そうか、あなたはそれを 売る必要がないと言うんだから、私はそれを買いたくはない。だが、それは売り物でないのだから、どうだね、 それを私に只でくれないかね?”神崎は誤解したか或いは僧侶が言い損なったかと思った。が、その言い分 はもっともだった。神崎はそれを売る必要がないと言う自分自身の言葉をその僧侶が繰り返したことに感銘を 受け、彼はそれを僧侶に差し上げた。

伝統の分野の範囲内で仕事をしている現代陶芸作家の成功を測るひとつの方法は過去からの最高作品と並べて 彼らの作品をおけるかどうかということだ。しかし、伝統的な考えに対する陶工の傾倒の度合いを測るより良い方法は、 陶工が伝統そのもを先進させることにどれほど努めたかを評価することかもしれない、”古きものを敬う、が、 その外殻を取り去り何か新しいものを創りだす”。この敬意で、神崎は彼が属する伝統を前進させ促進させている。

また神崎は制作方法に伝統的手法を取り入れているが、彼は彼の芸術的なビジョンを他の人に分け与える ために現代の道具や方策を独り占めにするようなことはない。彼のホームページ(www.the-anagama.com)は、 如何に彼が”伝統的なもの”の偽りない表現において”最新のもの”と”最も古いもの”とを統合しているかを 素晴らしく具現化している。そこで皆さんは、日本の六古窯の伝統、信楽焼きの歴史、古信楽の写真、 信楽における現代陶芸の報告、穴窯築窯の沿革の概観、そして神崎の穴窯(彼は十一基の穴窯を築き そのうちの四基はまだ焚かれている)の概観、彼の窯のデザインと窯焚きへの彼のアプローチがわかるだろう。 あなた方は又、世界中の他の作家による穴窯で創られた作品の選ばれた写真を見られる。”発展中のインター ネットにより、私は世界中のもっと多くの人と会い、話し合える機会を増やすに違いない。そして加えて、私は(他の人に) 私の友人の作品を見られるようにしたい(見てもらいたい)。私は彼らを先生だと思っている。”それが彼の望みである。

最後に、そこに作品そのものがある。神崎は古信楽・古伊賀の伝統的な作品を再現して並べている。 完成したのだが、彼はただ成功を受け入れ留まってはいなかった。彼は単に古い手法を再編成して作品を作 っていなかった。代わりに、彼は彼の考えを取り入れ、一連の”新しい肌の作品(瀑布窯変と呼んでいる)” にごく最近の成果を見せている。

だがこれらの言葉だけでは神崎の才能と専門的知識を言い表すことは出来ない。それらは窯焚の自然現象として 生まれたものだから。神崎は窯のひとつは半地上式だと言っている。ある窯焚の前、ひどいモンスーンが襲ってきて、 それが原因で窯の底が水浸しなったと彼は言っている。彼がはじめて瀑布窯変の作品を手にしたのは その窯からだった。

それ以来彼は、この自然の肌合いが現れる原因が何かを決めようと企てた(そしてそれを再現できるように)。 彼がこの経過の変化を理解するに至ったとき、彼は、湿気(窯の底から出てくる)と炎が相互に作用し、 生地の表面に激しく刻み付ける(或いは穴を穿つ)との結論を出した。このはなはだしく凸凹した表面は このむずむずするような肌を創る過程で自然釉を集める。

ある意味での紫峰タイプの釉は粘土と施釉の収縮の違いによるもののように見える、しかし、神崎が 到達した結果は、彼がある程度制御することを学んだ窯焚の現象によるものである。 神崎は、窯の中の温度が摂氏1230度から1280度(華氏2246度から2336度)の間に達した時の、炎と湿気 が相互に作用することが必要だ、と決め付けた。

理想的には、彼は窯焚のはじめに湿気がある窯が好きだ。そして神崎が言うには、もし窯焚の 三日〜四日間強い雨が降れば、ちょうど良い時に水が窯の中に徐々に入る、と。(日本の多少は予測 のつく夏の雨はある程度助けになるが、神崎は、もちろん、我々以上に天候をコントロールできるわけ ではない。)

彼の伝統的手法を世界中の人に公開することによって、古い窯焚の手法から新しい肌合いを創造 すことによって、神崎は、伝統を超えることの”言うことは容易だが、それをするのは難しいことだ” と言うことを実践する方法見出したのだ。

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