セラミック・マンスリー誌2000年3月号掲載記事・同誌の承諾のもと翻訳掲載しています。
PO Box 6102, Westerville OH 43086-6102, USA; www.ceramicsmonthly.org


速成化石:サヤ焼成磁器の炭素膜転写

ディック・レーマン著(1998年著作権所有)

翻訳:松川千明

[註] 原文は英語ページに掲載されていますので、原文を読みたい方はそちらでお読みいただきますようお願いいたします。

もう何年も前に私は、アメリカ式楽を焼いている際のアクシデントで、しかるべき条件 下では生の葉っぱや草の模様が熱い器の表面に残るということを発見した。1日中焚い ていたとき、突然嵐になった。進行中の窯を止める間もなく強風はあっという間にやっ てきた。ようやく大壺をひとつだけ窯から取り出し、おがくずの中に放り込み金属製の ゴミバケツで覆いをした。しかし猛烈な風でバケツは半ブロックも飛ばされてしまい、 まだ1000度<摂氏約540度>はある大壺は堤防の草の上をごろごろと転がり落ち、柵の 支柱にぶつかって止まった。時間が限られていたので、控えめに言っても覆いと壺の両 方を取り戻すのは誘拐に遭ったようなものだった。だが徐冷の後で見ると驚いたことに 、器の銅色の表面には転がったときの草の模様が残っていたのだ。

この偶然の出来事をそれきりにしておくのは惜しかったので、私は弱まりつつある風の 中で、おがくずの山の上に摘んできたばかりのウルシの葉を置き、その上に窯から出し たばかりの別の銅色の器を横向きに置いて、あわよくばもう一度アクシデント」が起き るよう祈りながら窯焚きを続行した。20分後この二作目は成功した:銅色の肌をした器 の側面には美しく柔らかなウルシの模様が現れていた。続けて焚いたが、成功品はこの やり方でしか出なかった。

数年後私はアメリカ式楽を焼くことをやめた。表面の銅色が褪せ、再び酸化してしまう ことにがっかりしたからである。一度はそれはそれは美しかったものが数年経つと冴え ない茶色に弱まってしまうことに、買ってくれた人も私自身も失望した。解決法が見つ からず、販売は中止したが、中止を決めたときは辛かった。楽を焼いていて偶然得るこ とができた鮮やかな植物模様は、本当に素晴らしかったから。

あの自然な感じと鮮明な細部の絶妙なブレンドを一つの器に写し出せるような焼成法は 他にないものかと私は探究を始めた。なぜか直観的にサヤ焼成という考えが浮かんだ。

今になって振り返れば、サヤ焼成がその答ではないかという私の思いつきは、普通では ちょっと起こり得ない論理の飛躍だったようだ。。サヤ焼成では、生の植物を器に押し つけることによって細部まで鮮明な模様はなんとか残せるが、肌の自然な感じについて は何とも言えなかったからである。

そして、人生では時に起こることだが幸運の女神の気紛れというやつで、初めてサヤ焼 成を試みたところ驚異的な成功を収めたのである。まるで天上のものとも言うべき模様 が器の他の部分を祝福していた。その中にくっきりと、新鮮な植物の姿が踊っていた。

「幸運の女神の気紛れ」と言ったのには訳がある。その後の何百という作品はどれ一つ として成功しなかったのだ! そうなのだ、少しは写ったものもあったが、植物の姿が はっきりと出たものは全くなかった。

この無情な失敗を目の当たりにしても挑戦を続けたのは、たぶん「健全な」否認の気持 ちからだろう(「一生懸命やれば必ずもう一度同じことが起こる筈だ」):私が恐らく 生涯持ち続けるであろう風景写真への興味がそうさせたのかもしれない。クローズアッ プで細部まではっきりと写し込んだ映像( Paul Caponigro や Arthur Lazar の作品の ような)に対する情熱が私を駆り立てる。竜巻によるアクシデントからコンスタントに 成功する楽焼での植物転写へと、あまりにも簡単にスタンスを変えたことが、私を頑な なまでに楽観的でいさせたのかもしれない。

大変美しい、サヤ焼成による(オリジナルの)植物転写の作品(私の作)を毎日机の上 で眺めるというのは奇妙な体験であった。 楽しく優美な模様のもの、葉脈や、破れや 、虫食いの穴まではっきりわかるほどのもの、そんな器を接写した写真が私の机の上に はあった。いつものように4x5のネガを暗室で現像したものだ。最初の試みではいとも 簡単に造りうるように思えた−と同時にそれ以後は造ろうとしても常に、永久に、際限 なく失敗が続くような、そんな器。

この不思議な工程について研究をつづけたが、それは四六時中というわけにはいかなか った。(このことにかかっている一方で私は常時稼働の製陶スタジオで製作・監督をし ていた。)ゆえに失敗作は一年半で数百個にのぼった。窯出しが失敗に終わるたび、私 は頭を掻きむしり、その窯の工程でどんな判断を下したかを記録し、出来た作品を机の 上の写真と見くらべた。

性格上の欠点が芸術家にとって長所になりうるならば、私にとっての頑固さがそれにあ たるのではあるまいか。最初の窯のような成功を続けて得られず、かといってそれが再 び得られないとは信じられず、わたしは挑戦し続けた。そしてついに一年半後、私の期 待を裏切らない結果が少なくとも時々は得られるようになったのである。

大変なのは細かい部分だということが今ならわかる。この焼成法で十年間続けてみて、 注意を払わねばならない要因がいくつかあり、それが結局は成功(か失敗)の決め手と なるとの結論に至った。 a) おがくずの細かさ、b) サヤの中のおがくずの量、c) 植 物のタイプ、厚み、中身、置き方、d) 焼成温度、e) サヤを焼く窯の種類、f) 用いる サヤの種類、g) サヤの閉じかた、 h) サヤを冷ます時間、i) 以上すべての要因の相互 作用。最初の窯焚きが成功したとき、のんきな(そして幸運な)ことにひょっこり得ら れたものが何かに気づいたのは、これらの要因や相互作用に十分注意するようになって からであった。しかしそれから十年以上経った今もって、最良の結果はなかなか得られ ない。現在でも最も良い作品は20%以下でしかなく、成功よりも失敗が多いことを我慢 するよう強いられている。

拙文に掲げられている写真の作品の焼きについて簡単に説明しよう:サヤに細かいおが くずを5インチ入れる。器を横倒しにしておがくずの上に置き、少し下に押しつけてお がくずを「巣」のようにする。器をいったん取り去り、摘んできたばかりの植物をおが くずの巣の底に敷き、その上に再び器を(横倒しにして)置く。

次に、器の、露出している上部にさらに植物を置く。その上に5インチ、細かいおがく ずを追加して載せる。そしてサヤに蓋をする。

焚いている間、窯の中で、閉じられたサヤの内部は酸欠状態になる。植物は「活性炭」 に変化し、その過程で炭素の薄い膜を放出する。素焼きの磁器は多孔質なので炭素の膜 を吸収し、植物の模様が表面に写る。

以前私が話をしたことのある古生物学者によるとこのスピードアップされた過程は、「 炭化」あるいは「炭素膜転写」と呼ばれる、もっとゆっくりとした、化石ができる過程 に似ている。(自然界では窒素や酸素といった揮発性の物質が植物から押し出され、化 学変化により植物の組織が炭素の薄い膜になる。後に残るのはそれまで生きていた葉っ ぱの一部の、およその形を示す残留物である。もし三角州や池などに生えていた植物が 厚く重なってより完全に炭化すれば、炭素はもっと残るだろう。)

サヤは比較的無酸素の状態が続くので、植物は燃えず(その代わりに活性炭になる)、 窯焚きが終わってからもまだ残っている(炭となって黒く、縮んでしまってはいるが) 。器の表面の炭素の模様が燃え切って消えてしまわないのもこの酸欠状態で説明がつく :器が赤熱するような温度では模様の炭素は燃料と「知覚され」、もし酸素があれば燃 焼過程が完遂され模様は焼き尽くされて、消えてしまう。

サヤの蓋の間からのわずかな空気の流れのせいで器の表面に白い部分ができることがあ る(この場合、炭素は燃え切ってしまう)。おがくずの大きさと深さを慎重にコントロ ールすれば、明るい部分と暗い部分を少し制御できる。−−炭素の模様を「ネガ」にす るか「ポジ」にするか決めることができたり、ときどき表面に生まれる「奇跡的な」感 じを加えたりすることができる。

「奇跡的」ということについてもう一言:私の話した古生物学者は、死後腐敗し崩壊す るという有機体の脆さ(そしてその結果起こる多くの「個体」、ときには種全体の存在 の記録が失われる可能性)に由来する、保存という「奇跡」について(化石の話の際に )言及した。最近私の陶房を訪れた「燃焼化学者」も、このような「速成化石」を一貫 して造り続けることの難しさについて同様の考えを話してくれた(主として「単純な」 セルロースの燃焼・もしくは部分燃焼時における無限に近い要因のため)。
この過程がそうそう起こることではないこと、そしてそのつかみどころの無さが私にと っては魅力なのだ。学ぶべきことが山ほどある世界:その過程で実際には何が起きてい るのか知るために古生物学的アプローチを取るか、燃焼化学的アプローチを取るかは選 択の余地がある。そして確かに、それらを学習することで、他のまた違った規則的とは 言えないような過程をコントロールする方法(そして多分、成功)についてのヒントが 得られるというおまけがついてくるだろう。

そして窯焚きを繰り返す中でもっともっと習熟せなばならないことがある(その方法に ついて古生物学的、あるいは燃焼化学的に理解しているかということとは無関係に)。 注意深く観察し、自分の判断を書き残しておくことで少しでもコントロールができるよ うになる。

しかしながら、この焼成法とはっきりと模様を写すアプローチとに常につきまとう、そ れらが本来的に持っているコントロール欠如という点が、また成功をいっそう素晴らし いものにしているのである。もし殆どの、あるいは全ての要因をコントロールすること が出来れば、この過程は今までのどの結果よりも優れた結果を生むだろう。その点でこ のアプローチは、失敗や失望の一方で驚きに満ちている−−私をそれらの作品の「造り 手」から、それ以上に「受け手」へと変身させるアプローチなのである。この神秘が、 ある部分で私にこのアプローチを続けるよう駆り立てているのだ。

Image of Line
(c) Dick Lehman, 1998. All Rights Reserved. Image of Line

Mail to Dick Lehman

Image of Line